傍に居るなら、どうか返事を 「勘弁してよ、成歩堂さん。」 サングラスを指で下げ、恨めしいと目が語る。しかし、ニヤニヤと笑う成歩堂の様子に、抗議すら取り合って貰えないのだと悟り、響也は溜息を付きながら兄の事務所のソファーに腰を降ろした。 普段は綺麗な兄の事務所が、成歩堂がいる時に限って薄汚れて見えるのは気のせいではないだろう。特に兄の姿が見当たらない場合は応接室が酷く雑多な感じがするのだ。 そう今夜、兄の姿は無かった。 研修会で地方へ出向いていることを響也も事前に聞いていた。頻繁に逢っているとは言いかねる兄弟の間柄だが、その手の業務連絡を怠るような兄ではない。だから響也は兄がいないと知っていて、此処へ脚を運んでいた。 勿論、成歩堂とふたりきりになる事を望んでいた訳ではなかった。 成歩堂の事務所で一夜を過ごしたからと言って、取り立てて響也と成歩堂の距離に変化は無く、連絡を頻繁に取り合う間柄になってはいない。なのに、性急な用事がない限り、成歩堂の呼び出しに応じている自分自身が響也を時折戸惑わせていた。 「で、今度は…何?」 「ん〜〜退屈だったから。」 何でもない事のように、そう言うと、成歩堂はぶどうジュースを煽る。 アルコールには強くないから飲んでいるとは本人の談だが中毒にでもなっているのではないかと響也は思う。 「マジ勘弁して、成歩堂さん。」 ガクリと頭を垂れると、旋毛が見えた。 「アンタは暇かもしれなけど、僕は多忙な人間なんだ。それに、アニキは僕がアンタと顔を会わせるの嫌みたいなんだよ。それも、事務所で会ってる事が知れたら、どんだけ不機嫌になるか、アンタだってアニキとつき合いがあるならわかるだろう?」 「そうは言っても、牙琉は君には優しい思うけどね、響也くん。」 「…それは、否定しない。でも、アニキはそこまで甘い人間じゃない。」 下を向いたままブツクサと愚痴を零している響也を眺めながら、嫌ならば来なければいいのにと、成歩堂は思う。響也が否を告げた時に食い下がった事はないのだ。 しかし、成歩堂は敢えてそれを口にはしなかった。 最初は抵抗し悪態をつき、最後には折れてくれる様子が嬉しい。くだらなく、些細いな駆け引きすらも堪らなく楽しい。 「聞いてるのかい? 成歩堂さん。」 「良い声だね。もっと話してよ。」 ニコと笑ってやれば、一生口なんか利くものかと言わんばかりの目つきで睨んでくる。じっと見ていれば、プイとそっぽを向いた。拗ねた横顔は、天才検事だのバンドのボーカルだのともてはやされている人間とは思えないほど子供じみている。 「だいたい、アニキもいないのにアンタ何をしに来てるんだよ。」 ふて腐れた表情のまま、響也はそう告げた。 「顔を見に来てる。」 「嘘つけ、ソファーで寝るために来てるんだろう?」 「そんな事はないさ、美人だ。」 笑って答えてやれば、響也の眉間は深く皺を刻む。ああ、誰の顔とは言わなかったな。成歩堂は『牙琉の』と言いかけた口を間抜けた顔のまま開き続けた。 見に来ているのは、誰の顔。 話しを聞きたいのは、誰の話。 まるで、誰かの歌詞のようだと、成歩堂は思う。流行りのメロディなど自分にはわかる訳もないが、街には彼の曲が溢れていた。 「じゃあ、聞くけどね?」 成歩堂は一人掛けのソファーから腰を上げて、テーブルを挟んだ向かいのそれに座った。横には、ぎょっとした表情の響也がいる。 三人掛けのソファーとはいえ、男ふたりが座れば、身を捩った響也の仕草に微かな軋み音がした。ニヤニヤと口端を引き上げた成歩堂に不審なものを感じるのだろう、響也は腰をずらして、間を空けようとする。 それを許さずに、成歩堂は響也の肩に肘を置いた。 「君が僕の傍に来てくれるのは、罪悪感からかい?」 虚をつかれた顔が、一瞬真実を物語ったのかもしれない。しかし、引き戻された響也の表情は成歩堂を驚かせた。 「アンタが証拠を捏造した(汚れた弁護士先生)なら、どうして僕が罪悪感を抱かなければいけないんだい?」 強い光を秘めた碧い瞳は真っ直ぐに成歩堂にむけられる。怒りなのか、憤りなのかその感情の矛先を成歩堂は見失いそうになった。成歩堂だけをうつす碧は、そうして微かに揺れる。複雑な感情の入り組んだ瞳は成歩堂の双瞠を引き付けるには充分な魅力を孕んでいた。 「…でも、僕はこの頃思うんだ。アンタがどうやったらあんな精巧な捏造が出来たんだろうって。物理的に、それは不可能だったんじゃないかって」 沈黙の後、響也の口から乾いた笑いが漏れて成歩堂もはっと意識を戻した。視線は既に反らされ、床に落ちていた。 「真実が知りたい、確かにそう…思うよ。」 指先が響也の顎に伸びた。滑らかな肌を捕らえて上に誘導する。従順に戻る視線を捕らえるよりも早く、成歩堂の唇が響也のものに重ねられた。 抵抗の意志と共に振り上げられた腕は、成歩堂の帽子を掴んでずるりとソファーへと落ちる。捕らえた顎を引き剥がそうと藻掻く腕も、同じようにソファーへ落ちる頃には、響也の身体は押し倒され、深い口付けを受け入れさせられていた。 「…んぅ…。」 息継ぎすら不慣れな様子は外見の遊び馴れた感じを裏切るもので、どこか真面目で頑固な響也の人柄を成歩堂に教えてくれた。それは、期待外れで期待通り。 「なに、す…る。」 解放してやれば背をソファーに押し付けたまま後ずさって、結局背もたれに押し戻される。その様子が成歩堂の笑いの壺を刺激した。くくくと笑いながら見下ろす。 「罪悪感じゃあないのなら、好きなのかと思って。」 かかかと赤くなる頬に気を良くして油断した、成歩堂の鳩尾に、今度は響也の膝が食い込んだ。しかし、息を飲むものの、以外と丈夫な成歩堂のお腹は苦痛を軽く受け流す。 驚愕に目を剥いたのは、響也の方だった。 「い、痛くない…の?」 「まぁ、痛いけど。しかし、照れ隠しにしては酷いねぇ。」 パーカーの上から軽くお腹を撫でている男は、全く意に介していないらしいと気付き、響也は声を荒くする。「何だよアンタは一体…!?」 話題を逸らす事など許さずに、成歩堂は響也を問い詰めた。 「で、返事は? 嫌いじゃない…は寂しいよ?」 先手を打たれて響也はぐっと息を飲んだ。恨めしそうに見上げる視線の先には、ニヤニヤと笑う成歩堂。言葉にしなければ、解放してくれる気はないのだと悟り、舌打ちをする。 ぐぐと奥歯を噛み締めてから、口を開いた。勿論目は、成歩堂を見ていない。 しかし、そっぽを向く顔は耳まで真っ赤になっていた。 「…ア…アンタが好きだよ。」 そうして、成歩堂の耳に囁いた消え入りそうな声は、まだ少年の面影を充分に持った甘い声だった。 content/ next |